このページの要点
- 目的・検証計画(別紙)・購入義務がないことを書き、試験期間と覚書の有効期間を分ける。
- 導入企業から従業員の名前を受け取ることは、提供者の開発目的なら委託ではなく第三者提供になり得る(個人情報保護法27条)。
- トライアルからの移行は、合意がなければ自動で終わる型、成立と課金開始を分ける型などから選ぶ。β中の申込みは起算点を決める。
- 事業者間なら試験版の免責は故意・重過失に限れるが、個人情報と秘密保持の違反は除く。
結論:無償の実証実験でも、覚書には「試験であること」を示す事実を書く
PoC(Proof of Concept。新しいサービスを実際の業務で試して効果や課題を確かめる実証実験)は、導入の前に無償で行うことが多く、「無料だから簡単な覚書でよい」と考えられがちです。しかし、試験の間にも、顧客の従業員の情報を預かり、物品やデータが動き、不具合も起きます。アトラス行政書士法人が作成した無償PoCの覚書は、依頼者の原案の全11条から、全31条と別紙2つに組み替えたものでした。
このページでは、無償PoCの覚書と、無料トライアル・β期間から本契約に移るときの契約条件を扱います。開発を委託する契約の中のPoCの一般論は、姉妹サイトの開発委託のページにあります。ここでは、SaaSの提供者が導入候補の企業と結ぶ覚書と、試用から有償への移り方に絞ります。
無償PoCの覚書に書くこと
従業員向けのサービスを導入候補の企業で無償で試す覚書では、依頼者の原案の第1条に「本サービスの機能及び使用感を検証することを目的とする、製品開発のための試験である」「商用提供ではなく、継続利用や購入を約するものではない」とありました。方向は適切ですが、「機能及び使用感」だけでは、試験の中で物品を購入・配送し、手渡しまで行うことがなぜ検証に必要なのかが読み取れません。試験としての合理性を裏付ける条文はこの条だけなので、ここを厚くすべきだと指摘しました。
無償PoCの覚書に置いた事項(全31条+別紙2)
- 目的:何を検証し(機能・操作性・運用上の課題・職場に与える影響)、結果を何に使うか(開発・改良)。
- 性質:提供者が自己の製品開発のために自らの費用と責任で行う試験であり、商用の提供ではないこと。導入企業に終了後の購入義務その他の取引義務がないこと。
- 検証計画(別紙):検証の目的、検証事項、方法(取得情報の集計、任意のアンケート、終了後のヒアリング)。別紙も存続条項の対象にする。
- 試験期間と覚書の有効期間:試験の期間と、後始末・結果報告が終わるまでの覚書の期間を分ける。
- 役割の分担:提供者の実施事項と、導入企業の協力事項を号で列挙する。
- 取得する情報と利用目的、統計情報への加工、削除の期限と法令上の保存の例外。
- 試験版の不具合についての免責と、その例外(個人情報・秘密保持の違反)。
- 意見・改善提案の利用、結果の帰属、事例の公表の同意。
- 反社会的勢力の排除、譲渡の禁止、通知の方法、存続条項、準拠法と管轄。
購入義務がないことの明記は、導入企業の社内の決裁を通しやすくする意味もあります。無償だから責任が軽い、という発想ではなく、「何を確かめる試験か」を書面に残すことが、試験の後に有償契約を交渉するときの前提にもなります。
「無償で提供する」と「金銭の授受をしない」は意味が違う
依頼者の主な関心は、試験の中で行う物品の提供が、贈与や寄附と受け取られないかという点でした。原案には「甲乙間で金銭の授受は行わない」という条と、「甲は、次の事項を無償で提供する」「物品は甲が参加者に対して直接無償で提供するものである」という条が並んでいました。
事務所の報告書では、前者は費用の負担を定めた規定であり維持してよいのに対し、後者は「誰かに財産を与える」という法律関係を宣言する文で、贈与(民法549条:当事者の一方がある財産を無償で相手方に与える意思を表示し、相手方が受諾することで効力を生じる契約)と同じ構文になっている、と整理しました。また、物品の選定・購入・送付を導入企業への「無償提供事項」として並べると、提供者が導入企業に物品購入の便益を無償で与えるように読めます。購入は提供者が自己の名義と費用で行う自身の行為なので、提供者が自ら行う事項に移すべきだと指摘しました。
事務所の改訂例:無償PoCの性質の書き方
給付の性質
理由「無償」の語を消せば足りるのではなく、試験として必要であることを示す事実を条文に置くことが中心です。
導入企業の協力
理由協力を対価にすると交換取引になり、導入企業が物品を受け取った前提の構成になるからです。
中途終了の後始末
理由提供者の「提供義務」として書くと、導入企業の従業員(第三者)への給付を約した、第三者のためにする契約(民法537条)と読まれる余地があります。
試験期間と覚書の有効期間を分ける
原案は「◯年◯月1日から同月31日までとする」と、暦の上の1か月に期間を固定していました。この形では、期間の末日に開封された物品は期間の後に届き、受領や交付の義務が期間の満了後に履行されることになります。未了の分の扱いは中途終了の条にしかなく、期間満了にも適用されるのか不明でした。
条文例試験期間と覚書の有効期間(PoC覚書を一般化)
- 本実証の期間(以下「試験期間」といいます。)は、開始予定日(本覚書の締結の日から起算して5営業日を経過した日が開始予定日より後であるときは、その日)から起算して31日間とします。
- 試験期間の末日までに完了しなかった操作は、以後行うことができません。
- 本覚書は、試験期間の終了後、未了の手続及び第◯条の結果報告が完了した時又は試験期間の末日から3か月を経過した時のいずれか早い時に終了します。
「営業日」は定義条で、土曜日・日曜日・祝日と年末年始を除く日と定めました。締結が遅れても試験期間が短くならないよう、開始日を締結日に連動させています。
同じ書式を複数の導入企業と結ぶことも確認しました。この場合、前文の導入企業の欄は空欄にし、上限の額は導入企業ごとに記載して、他社の分を含む全体の上限は書きません。導入企業から見ると、他社分を含む総額は意味を持たず、「自社の枠はどちらか」という疑問を生むだけだからです。全体の上限は提供者の内部の管理にとどめます。
導入企業の従業員の情報は、委託ではなく提供になることがある
このPoCでは、導入企業の上長が部下の表示名をシステムに入力する仕組みでした。導入企業の従業員名簿に基づいて入力すれば、導入企業による個人データの第三者提供(個人情報保護法27条1項)に当たり得ます。そしてこの提供は、提供者自身の製品開発の目的で使うためのものなので、導入企業の業務を委託する場合(同条5項1号)には当たりません。
ご相談と回答参加者の同意
参加者全員から事前に同意を取ることは想定していないが、取った方がよいか。
取得すべきと回答しました。名簿の登録の時点で導入企業から提供者への提供が生じ得るため、参加者が案内のURLを開いた時点の同意では、提供が先に起きてしまいます。導入企業による事前の同意と、提供者の確認画面での同意の二段構えにしました。
「導入企業の承諾なく第三者に提供しない」と書けば足りるか。
足りません。第三者提供に必要なのは本人の同意で、導入企業の承諾はその代わりになりません。承諾を得ても本人の同意がなければ提供できないと分かる書き方に改めました。
同意の取得の負担を減らす方法はあるか。
PoCは少人数なので、導入企業の担当者が説明資料を社内メールで配り、参加を希望する人から同意の返信をもらう方法で足りると案内しました。同意の記録を導入企業に残してもらうことも覚書に入れています。
結果の報告は、個人が推知されない集計の単位に限りました。原案は「原則として統計処理又は匿名化した情報により報告する」としていましたが、「原則として」の例外が限定されておらず、個人単位の情報を渡せば提供者から導入企業への第三者提供になります。修正案では、部署別・個人別など特定の参加者を識別・推知できる情報を含めず、人数が少なく推知のおそれがある項目は報告しないとしました。あわせて、導入企業が参加の有無や操作の記録を人事評価に用いないこと、参加しないことを理由に不利益に扱わないことを、導入企業の義務として置いています。委託先としての個人情報の扱い全体は委託先と個人情報のページで扱います。
トライアル・β期間から有償に移るときの書き方
無料トライアルやβ期間(正式な提供の前に機能を試してもらう期間)から有償に移る場面は、契約の成立、料金の発生、期間の起算がずれやすいところです。事務所の書類には、次のような設計があります。
試用から有償への移り方(事務所の書類から)
合意がなければ自動で終わる
法人向けの業務支援クラウド
- 無料期間の終了日までに課金開始の合意がなければ、契約は当然に終了
- その後も使い続けていても料金を請求しない
- 自動で有償に移らない設計
規約を分けて準用する
広告の制作を管理するクラウド
- トライアル規約と有償規約を分ける
- トライアル中も有償規約の禁止事項と責任の条項を準用
- 移行しなければ30日保持して削除。移行すればデータを引き継ぐ
成立と課金開始を分ける
投稿を生成するクラウド
- 契約の成立は会員登録の完了と利用可能化の時点
- 料金の支払義務はトライアル終了日の翌日から
- 期間の計算は課金開始日から
将来の課金を予め承諾させる
スカウト型の採用クラウド
- ベータ・検証の無償提供でも、事前に通知すれば将来の課金に移ることを承諾させる
- 特定の顧客向けの特別プランは見積書で契約の一部にする
無償は以後の条件を縛らない
送客の業務提携
- 3か月の検証期間は掲載料を取らない
- 無償は検証期間後の取引条件を拘束しない
- 新しい契約がなければ満了で掲載終了
反対に、β期間の書き方が足りなかった例もあります。事業者向けの予約管理クラウドの規約では、β期間中に有料の申込みをした場合、「請求はβ期間の終了日の翌日から開始する」とだけ書かれていました。他方で期間は申込日から起算して更新すると書かれていたため、最初の期間の起点が3通りに読めました。
β期間中に申し込んだ場合の起点の読み方
| 読み方 | 最初の期間 | 結果 |
|---|---|---|
| ① | β終了日の翌日が最初の期間の起点 | 請求日と更新日が一致する |
| ② | 申込日から起算し、β終了の翌日に請求 | 請求日と更新日がずれる |
| ③ | β終了の翌日に請求するが、最初の期間は申込日の応当日までの端数 | 初回の請求が満額か日割りかが決まらない |
初回の請求額、更新日、β期間中に解約した場合の効力の日、年額ならどの12か月分かが決まらない状態です。β期間中に有料の申込みをした利用者は、課金の前でも有償契約の当事者であり、無償のサービスの考え方がそのまま当てはまるとは限らない、という点も報告書に書きました。β期間の終了時に機能が使えなくなる仕組みに事前の通知がないこと、β期間の延長や短縮の定めがないことも補うべき点です。
試行版の契約から正式版への移行では、予定日の30日前までに通知し、条件は別途合意し、合意できなければ終了する、としました。最長の期間(例えば12か月)は置いていません。期間を区切ると、延ばすたびに契約を取り直す運用の負担が生じるからです(期間・自動更新のページ)。
試験版の免責、意見の扱い、試験後のデータ
この節では、試験の終わり方に関わる3つの条をまとめて説明します。
試験版の免責は、事業者間なら故意・重過失に限れる。ただし例外を置く
無償PoCの覚書では、試験版には表示の誤り、データの消失、一時的な利用不能などの不具合が生じ得ることを確認し、提供者は完全性・正確性・有用性・中断のない稼働を保証しないとしました。そのうえで、提供者の故意又は重大な過失による場合と、個人情報の取扱い・秘密保持の条の違反による場合を除き、賠償の責任を負わないと定めています。事業者間の契約であり、消費者契約法8条の規制は及ばないので、故意・重過失に限る免責は無償の試験として合理的と評価しました。個人情報と秘密保持の違反を除いたのは、従業員の情報を預ける導入企業の法務担当者が最も気にする点で、締結を円滑にするためです。
導入企業の側の責任も、試験のために保管する物品については購入価額を上限としました(故意・重過失を除く)。トライアル中は責任を負わないとする書き方や、責任の上限を支払額で決めている規約で無料期間の上限が0円になる問題は、責任制限のページで扱います。
PoCで出た意見・改善提案の権利
原案は、提供者が「独自に作成、開発又は改良した」成果物の知的財産権は提供者に帰属するとだけ定めていました。しかしPoCでは、導入企業や参加者の提案を取り込むのが普通で、「独自に」とは言えないという主張を許します。導入企業の従業員が着想に実質的に関与すれば共同発明になり得て、特許を受ける権利が共有になると各共有者は共同でなければ出願できず(特許法38条)、特許権が共有になれば持分の譲渡やライセンスに他の共有者の同意が要ります(同法73条1項・3項)。導入企業に職務発明の定め(同法35条)がなければ権利が従業員個人に帰属し得るので、導入企業との合意だけでは確保しきれません。
修正案では、意見等は無償で期間・地域の制限なく改善と開発に利用できること、導入企業は意見等とそれに基づく改善について、自ら有する権利と、役職員の職務上の行為により取得する権利を主張しないこと、提供者に採用の義務はないことを定め、参加者本人からも説明資料と確認画面で同じ趣旨の同意を得る形にしました。試行版の契約でも、顧客の担当者の機能提案を提供者が実装することが日常的なため、フィードバックは無償で他の製品にも使え、顧客は権利を主張せず対価も請求しない、と定めています。
事例の公表は、導入企業の書面による同意を要件とする原案を維持し、「本覚書の締結は、公表についての同意を含まない」と一文を足しました。法人向けの業務支援クラウドの約款では逆に、契約者名とロゴを実績として営業資料に載せることを予め許諾させ、契約者が通知すれば中止する、という申出による停止の型を採っています。PoCは導入前の段階なので、同意を得てから公表する型の方が導入企業に受け入れられやすいと考えています。
試験の後のデータの削除と、法令上の保存
原案は「本実証の終了後1か月以内に削除する」としていましたが、存続条項が秘密保持だけだったため、覚書が失効した時点で削除の義務の根拠も失われるという矛盾がありました。修正案では、試験の終了から2か月以内に削除するか統計情報に加工して元の情報を削除することを原則とし、例外を号で分けました。導入企業との連絡用の情報は終了後1年、物品の交付の事実の記録と検証の記録(個人を識別できない形に加工したもの)は帳簿の保存期間、第三者提供の記録(個人情報保護法29条・30条)や同意の記録など法令上保存が必要な記録はその期間(定めがなければ終了から3年)、いずれもアクセスを制限して保存します。「匿名化した情報は期間の制限なく利用できる」という原案の文言は、「匿名化」が法令の用語ではなく、加工の程度によっては匿名加工情報の作成として別の義務が生じたり、個人情報のままだったりするため、「特定の個人との対応関係が排斥された集計の結果」を統計情報と定義し、期間の制限なく使えるのは統計情報だけ、と改めました。
起きがちなこと
PoC・トライアルで起きがちなこと
- 覚書の目的が「機能と使用感の検証」だけで、物品やデータの扱いがなぜ試験に必要か読み取れない。
- 「無償で提供する」と書き、贈与と同じ構文になっている。
- 試験期間を暦日で固定し、締結が遅れると期間が短くなる。期間末日の後に残る手続の扱いがない。
- 導入企業から従業員の名前を受け取ることを「委託」と考え、本人の同意を取っていない。
- β期間中の有料の申込みについて、請求開始日しか決めていない。
- 原案にあった「締結前に専門家の確認を推奨」といったドラフトの注記を残したまま電子署名し、「下書きに署名しただけ」と争う手掛かりを与える。
- 営業資料や利用ガイドの説明(「贈り物」「予算」など)が覚書の建付けと食い違い、第三者が運用資料の方を実態として重く見る。
よくあるご質問
無償のPoCでも覚書は必要ですか?
必要です。無償でも、従業員の情報を預かり、物品やデータが動き、不具合も起きます。目的と検証計画、試験期間と覚書の有効期間、役割の分担、取得情報と削除、免責とその例外、意見の利用、反社会的勢力の排除と存続条項を書いておきます。
PoC覚書に「無償で提供する」と書くと、何が問題ですか?
「無償で提供する」は財産を与える法律関係を宣言する文で、贈与と同じ構文になります。費用の負担を定める「金銭の授受を行わない」とは意味が違います。語を消すだけでなく、物品やデータの扱いが試験として必要であることを示す事実を条文に置きます。
導入企業から従業員の名前を受け取るのは、委託ですか?
提供者が自社の製品開発のために使うのであれば、導入企業の業務の委託には当たらず、導入企業による第三者提供になり得ます。その場合は本人の同意が必要で、導入企業の承諾では代わりません。導入企業による事前の同意と、提供者の確認画面での同意の二段構えにする方法があります。
無料トライアルが終わったら自動で有料に移す書き方と、自動で終わらせる書き方のどちらがよいですか?
法人向けでは、終了日までに課金開始の合意がなければ契約が当然に終了し、使い続けていても請求しない設計が顧客に受け入れられやすい形です。自動で有料に移すなら、契約の成立と料金の支払義務の発生を分け、課金開始日と金額を明確にしておきます。
β期間中に有料の申込みがあった場合、最初の期間はいつから数えますか?
規約で決めておかないと、β終了日の翌日、申込日、端数期間の3通りに読めることがあります。最初の期間の起点、初回の請求額が満額か日割りか、更新日、β期間中の解約の効力の日を明記します。
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